しつこいと思われているだろうが、「モーツァルト!」絡みの話。
それ自体はもう前のことではあるけれど私にとっては最近のことなのだ。
大阪から帰ってから例によってOさん(自称kinkiファン私からみたら光一ファン)とのやり取りの中で私が初演から三度目の再演まで出演していた中川くんは私には合わない等話したら。彼女曰く「それは私は単なる井上くんファンで、中川くんや育三郎くんを推している自分がモーツァルトファン。」これはちょっと聞き捨てならなかった。で、その反論をここでしようと思う。
もちろん私よりも彼女の方が初演から回数も多く観ている。でもそんなことは関係ない。
大抵の人は大した予備知識もなく、劇場へ足を運び、自分なりにその作品を解釈する。作品を創る側にしても必ずしも原作をなぞるだけではないだろう。そしてその作品を自分なりに解釈し、演者を評価する。私の場合、必ずしもM!の作者が意図した通りの解釈ではないかもしれない。そもそもそんなものは知らない。言われた通りの解釈して演者に優劣を付ける気もない。
思い出すのははるか昔、「屋根の上のバイオリン弾き」について語ったこと。「森繁さんのテヴィエはお父さんそのものでそれが日本で受けた要因」という私の持論は前にここでも書いたと思う。それは欧米とはまったく違う日本独自の解釈であり、この国で「屋根~」なのだ。同じ作品を観てもどう解釈し、そのキャラをどう感じるかもまさに十人十色。それに好き嫌いもあるし...。
今思うのはもし、最初に観たのが中川版だったら私は果たしてここまでこの作品に魅せられただろうか?
私が中川版を観たのは彼の最後の登板の時で、正直その先もこの二人のWキャストが続いたとしても芳雄版に戻して観ようと決めていた。なぜそうなったのかは知らないけれど中川くんは4回目からは外れ、育三郎君が新たに登板となった。この4回目を観たあとは再演が待ち遠しくなっくんはた。もしかしたらだんだん近づいて重なり合っていく井上ヴォルフガングに対して中川版は最初から近かったけど平行線のままだったのかもしれないと思ってみたりもした。
そんなことを考えながら検索していたら先日興味深いブログにぶつかった。その方は中川版を絶賛しているけど、その表現のひとつひとつが私にとってはマイナスになってしまう。が、それよりも私を捉えたのはもしかしたら中川くんが逃れたい影ってアマデではなく、本当は芳雄くんではないかという1文。世間的には中川くんが絶賛され賞も頂いて、芳雄くんの方が落ち込んでコンプレックスを感じていたと見るのが一般的。でもこんな説を目にすると確かにそれも有り得ると思ってしまう。同時にOさんが芳雄くんに冷たくて中川くん、育くんを押す理由がわかった気がした。Kinkiにおいては芳雄くんは剛くん、そして中川くんは光一さんに重なるからだ。
だから私は芳雄君に魅かれたのか、Oさんは単に私に反発しているだけかもしれない。だけど二人組はWキャストと同じで常に比較されている部分がある。そしてそのプレッシャーと闘っているのだろうか。
ミュージカルにしてもいつからキャストを比較するようになったのだろうか。 私が劇場に通っていたのはるか昔、1ヶ月公演が普通でキャストも決まっていた。例外は森繁さんの「屋根の上のバイオリン弾き」。キャストが代わるとしてもスケジュールの都合みたいでひと月毎に代わっていた。それが変わったのは多分「レ・ミゼラブル」のオーディショシステムからか。それまでのスターシステムとの狭間でいろいろと大変だったことは本で読んだ。
W以上のキャストにする大きな理由は出演者のコンディション維持。だから1ヶ月ものは現在でもほとんどが単独主演。
それがいつの間にか全キャストを制覇しようというリピーターが出現したのは東宝にとっても思わぬ産物だったのかもしれない。キャストの組み合わせを変えたり、どの人がいいか品定めをしたり、そんなことで劇場通いをするなんて以前は考えられなかった。もちろん、他の人を見ることによって新しい発見があったり、クローズアップされたりすることはある。わたし自身もかつてはそんな発見をしてきた。でもその一方で弊害もある。 前にも書いた通り宝塚でベルばらなど続演が繰り返されたことによっていろいろなパターンがあるのが当たり前になり、自分に役を近づけていくようになる。例えば三代目のヴォルフガングの育三郎君は前の二人に比べたら気分的に楽だと思う。(もちろん彼なりに苦労はあるけれど)
そしてもうひとつ。すぐに「卒業」とか「ファイナル」で役者を変えるのはいい加減にして欲しい。かつては森繁さんや松本幸四郎さんは続投したけど、まるで「寅さん」のマドンナのように女優さんが変わった。考えてみたら私は「屋根~」にしろ「王様と私」にしろ好きでリピートしていた作品はキャストが変わってからは観ていない。(海外からの来日公演を除いて)だからこのままだと「モーツァルト!」ももう二度と見ることはないのだろうか・・・。
−ナンテ当分M!ロスは続く。